東京高等裁判所 昭和59年(う)682号 判決
所論は,要するに,被告人は本件犯行当時精神分裂病の慢性状態による心神喪失の状態にあったもので,刑法39条1項により無罪とされるべきであったのに,原判決は被告人が本件犯行当時精神分裂病であったことを認めず,ただ精神薄弱等の症状により心神耗弱の状態にあったと判示し,被告人を有罪としたのは,証拠の評価を誤って事実を誤認し,その結果法令の適用を誤ったもので,その誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかである,というのである。
ところで,原判決は,「弁護人の主張について」という表題の下に詳細な判断を示しているが,その2項において,被告人が本件犯行当時精神分裂病の慢性状態にあり,そのため心神喪失の状態にあったとの弁護人の主張を排斥したうえ,3項において,柴田洋子作成の鑑定書によると,被告人の知能は,田中・ビネー式知能検査では知能指数ほぼ50前後と推測するとされており,また市川達郎作成の精神衛生診断書によれば,被告人は精神薄弱(知能指数58)とされていること等を挙げて,被告人は本件犯行当時精神薄弱等の症状により心神耗弱の状態にあったものと認めるのが相当であると判示している。
そして,原判決は,被告人が本件犯行当時精神分裂病でなかったと明言はしていないものの,「被告人は少くとも15年以上前に精神分裂症に罹患し,本件犯行当時にはその慢性状態にあった」旨と被告人の知能程度について並記した前記鑑定書中後者のみを証拠説明に用い,前者については全く不問に付していること,及びその余の判文を総合すれば,所論指摘のとおり,原判決は,被告人が本件犯行当時精神分裂病であったことを認めなかったものと解さざるをえない。
なお,原判決が心神耗弱の結論を導き出すにあたり,単に「精神薄弱等の症状により」としているので,精神薄弱以外にいかなる症状を考えたのか必ずしも明確でないけれども,右結論を出すにあたり,原判決が被告人の精神薄弱を主たる理由としたことは判文上明らかである。
そこで検討すると,被告人が本件犯行当時精神薄弱等の症状により心神耗弱の状態にあった旨の原判決の前記判断は,精神薄弱を主たる理由とした点及び精神分裂病を理由としなかった点において誤りであり,その結論はともかく,判断の過程において事実誤認があるといわざるをえない。
その理由は以下のとおりである。
1 被告人の知能については,原判決が判示しているように,柴田洋子作成の鑑定書には,田中・ビネー式知能検査の結果について,IQにするとほぼ50前後と推測される旨の記載があるほか,市川達郎作成の精神衛生診断書には,昭和43年5月28日施行した鈴木・ビネー式知能検査の結果IQ58であったとの記載があるけれども
(1) 柴田洋子作成の鑑定書では,被告人の知能テストの数値が低いことについて,テスト場面での関心,意欲の乏しさ,拒否などによる失敗が得点を低めていることが明らかなので,テスト結果のみを重視するわけにはゆかないとされていること,
(2) 昭和43年5月28日に施行された鈴木・ビネー式知能検査の結果についても,後記のように被告人が昭和42年以前から分裂病に罹患していたとすると,被告人がその検査に対して拒否的,非協力的であったことが考えられるから,その数値に十分な信をおくことはできないこと,
(3) 柴田洋子が,原審において,大正5年生まれの被告人がこの時代に小学校高等科を卒業できたということから,生来被告人の知能発育に障害があったとは思われない旨証言していること,
に照らすと,前記各知能テストの結果あらわれた数値を根拠として被告人が本件犯行当時精神薄弱等により心神耗弱の状態にあった旨の原判決の判断は,所論指摘のとおり,事実を誤認したものといわざるをえない。
2 柴田洋子作成の鑑定書並びに同人の原審及び当審における証言によると,同人は,被告人の本件犯行当時の精神状態について,精神分裂病の慢性状態にあったとするとともに,その発病の時期は不明であるが,昭和42年以前から分裂病に罹患し,長年月の間に著明な欠陥状態を呈するに至ったものと考える旨診断しているのであるが,その診断に疑問を生じさせるに足りる証拠は存しない。
従って,被告人の責任能力の有無・程度につき考察するにあたっては,被告人が本件犯行当時精神分裂病の慢性状態にあったことを当然の前提としなければならないのに,原判決がこれをしなかったのは誤りであり,この点も所論指摘のとおりである。
3 しかしながら,被告人が精神分裂病に罹患していたからといって直ちに被告人が心神喪失の状態にあったとされるものではなく,その責任能力の有無・程度は,被告人の犯行当時の病状,犯行前の生活状態,犯行の動機・態様等を総合して判断すべきことは,最高裁判所昭和59年7月3日第三小法廷決定(刑集38巻8号237頁)が判示しているとおりである。
なお,柴田洋子は,原審及び当審において証言した際,精神医学者としての立場から,被告人は本件犯行当時心神喪失の状態にあったと考える旨述べているが,責任能力の有無・程度は裁判所の判断すべき法律問題であるから,裁判所が右の意見に拘束されるものでないことはあらためていうまでもない。
4 そこで検討すると,関係証拠によれば,
(1) 柴田洋子は,被告人の本件犯行当時の病状について,慢性状態としては中等度,また分裂病による人格の崩れの程度も中等度であるが,中等度の中ではかなり重い部類に属していると診断していること,
(2) 被告人は,
(ア) 本件犯行の約半年前から,都内豊島区上池袋二丁目のアパートの一室を借りて一人で暮らしていたが,家主に対しては家賃のほか毎月2,000円程度の心づけを贈っていたこと,
(イ) 池袋の旅館やホテル街をふらつき,通行人に声をかけて客になってもらい,旅館やホテルで売春をし,その収入で暮らしを立てていたが,その収入の一部は貯金にまわし,本件犯行当時その貯金額は350万円程度に達していたこと,
(ウ) 食事は1食500円から700円をかけ外食をしていたが,売春をすると疲れるという理由で1日3本栄養剤を飲んでいたこと,
などが明らかで,被告人の本件犯行直前の生活状態に,売春をなりわいとする一人暮らしの老女の生活として理解に苦しむような異常な点はないばかりか,家主との人間関係や自らの健康維持にも相応の配慮をしていたと認められること,
(3) 被告人は,ピンクの口紅をつけ,原判示の日の午後8時8分ころ,原判示の旅館「七ふく」の前路上を私服で通行中の警察官長内俊一の傍らに歩み寄り,同人に対し「そこの旅館でいいから遊んでいかない。2,300円でいいから。」と声をかけ,同人に寄り添ってつきまといながら「2,300円よ。この旅館でいいから。」と繰り返し声をかけ,右手で前記旅館の出入口を指さすなどしたが,長内及び同僚の警察官から客引きの現行犯人として逮捕する旨告げられるや,その場に土下座して手をつき「勘弁してください。」と謝っているのであって,その犯行態様は売春婦の客引きの行為態様として尋常なものであり,警察官から現行犯人として逮捕すると告げられた際の対応も,土下座をしたという点に精神分裂病者の衒奇的行動と見られる一面はあるものの,その点を除けば,自己の置かれた立場に対する正常な認識を有する者の行動として了解可能なこと,
(4) 本件犯行は,生活の資を得るためはるか以前から日常化している行動の一環として犯されたもので,その犯行が妄想や幻覚に直接支配されて犯されたものとは考えられないこと,
などが明らかであって,以上を総合すると,被告人が本件犯行当時,精神分裂病の慢性状態という心神の障害のため,是非善悪を弁識し,その弁識に従って行為する能力が著しく減弱した状態にあったことは否定できないが,被告人が前記心神の障害によって自己の行為の規範的意味を理解し,その理解に従って自己の行動を制御する能力を全く欠いていたとまでは考えられない。
5 してみると,被告人が本件犯行当時心神喪失の状態にあったとする弁護人の主張を排斥し,当時被告人が心神耗弱の状態にあったとして原判決の判断は,その判断に至った理由づけに誤りがあるものの,結論は相当であるから,原判決の前記事実誤認は判決に影響を及ぼさない。
したがって,論旨は結局理由がない。